伊東忠太先生の「湯島聖堂の復興に就いて」|儒教総本山再建の重要性

1923年9月1日、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の大正関東地震が発生しました。発生が昼食の時間と重なったことから、多くの火災も発生しました。死者、行方不明者は10万人以上。言うに及びませんが、この地震による壊滅的な被害は関東大震災と呼ばれています。

ちょうど100年ということもあり、関東大震災関連のブログを書こうかと思っていたところ、伊東忠太(いとうちゅうた)先生が適書を出されているのを見つけましたので、それらを引用しながら、綴ってみようと思います。

今回は、大正関東地震に伴う火災で焼失した湯島聖堂を題材にした話になります。伊東忠太先生の「湯島聖堂の復興に就いて」を引用し、焼失した湯島聖堂復興の意義や、再建計画の方針などを読み取ります。

目次

湯島聖堂の歴史

・・・孔子を祭ることは旣に奈良時代に於いて、吉備眞備が大宰府に孔子の廟を造つたと云ふやうなことが見えまして、・・・此の聖堂として大成した建築の出來たのは德川時代、・・・江戸の聖堂の始まりは寛永九年德川家光が忍ヶ岡に創立したのであります。・・・扨て此の忍ヶ岡に出來ました聖堂は元祿三年に今の湯島に移轉をしましたが、其の後二回火災に罹つて最近まで在つたのが寛政十一年建築である。其の建築物は・・・日本化せる支那式とでも云ひますか、・・・彼の屋根の形、棟飾の怪動物などは甚だ面白いものでありました。

伊東忠太建築文献、第6巻、昭和12年、p.336

・・・大正十二年九月一日の大震大火の爲めに湯島の聖堂が全燒致しました。

伊東忠太建築文献、第6巻、昭和12年、p.329

以上の引用に補足も加えてみます。

元禄三年(1690年)に湯島に移されたのは、林家(りんけ)の孔子廟(こうしびょう)と家塾(かじゅく)です。徳川五代将軍綱吉によって行われましたが、その目的は、儒学の振興にありました。寛政九年(1797年)、幕府直轄学校として、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)が開設されました。明治維新では、新政府に所管され、存置されていましたが、明治四年(1871年)に文部省が置かれ、寛永九年(1632年)の創立以来240年の歴史を閉じることになります。その後、東京師範学校、東京女子師範学校が設置されました。後の筑波大学、お茶の水女子大学です。湯島聖堂は、近代教育発祥の地としての栄誉も担うことになりました。

大正十一年(1922年)、湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌年の大正十二年(1923年)、大正関東地震の火災により、孔子廟である大成殿(たいせいでん)をはじめ、敷地内のほとんどすべてを焼失しました。後述しますが、昭和十年(1935年)に、伊東忠太(いとうちゅうた)先生設計により、鉄筋コンクリート造で再建されました。文化庁による保存修理も行われ、現在に至っています。

なお、現在、湯島聖堂には、イチョウの木々が茂っています。これらも大正関東地震の大火に遭いましたが、焼失を免れています。幹に残された炭化の傷跡は、震災の記憶を語り継いでいます。

敷地内のイチョウの木々
敷地内のイチョウの木々
大成殿炎上の影響で焼け焦げたイチョウ
大成殿炎上の影響で焼け焦げたイチョウ(現存)

焼失した湯島聖堂復興の重要性

・・・其の復舊建築計畫のご依頼を斯文會より受けました・・・然るに此の聖堂は・・・今日の日本の社會の狀態から考へましてこれを復舊することが最も緊急な仕事であると私が感じたので、微力ながら奮つて關係さして戴いた次第であります。・・・

伊東忠太建築文献、第6巻、昭和12年、pp.329-330

今日の日本の國民の思想狀態は隨分憂慮に堪へないと思ふのでありまして、・・・周末春秋戰國時代の思想混亂の狀態とよく似て居りますが、それよりも今の方が更に惡性であります。・・・

今日色々な思想が澤山出來たのは・・・西洋の受賣である・・・受賣であるから眞劍味がなくて輕薄である、それだけ惡性である。・・・聖堂復舊の主義は孔子の敎を宣傳し、廢頺しつゝある我が國民思想を善導したいとかう云ふのが趣意であります・・・

伊東忠太建築文献、第6巻、昭和12年、p.338

それを實行するにはどうしたらよいかと云ふと、・・・聖堂の形は滅亡しても、儒教の精神は滅亡しないのであるが、人は矢張り耳で聞くと同時に目で見なければ承知しませんから、・・・聖堂がなくなると同時に儒教は滅亡したといいます。・・・今日の日本國民を善導しようと云ふ肝腎な儒教の大本山卽ち聖堂を復舊すると云ふことは此の意味に於いて國家的緊急なる大事であります。

伊東忠太建築文献、第6巻、昭和12年、p.333

引用の要旨は、
①伊東忠太先生は、湯島聖堂の復旧計画を、斯文会(しぶんかい)から依頼され、奮って引き受けた、
②西洋思想の受け売りで国民の思想が混乱しており、孔子の教えを宣伝し、国民思想を善導したい、
③まずは、形としての聖堂の存在が重要で、その復旧が緊急ごとである、
といったところでしょうか。

以下は補足です。

湯島聖堂の復興は、斯文会が主導しました。その前身は、明治十三年(1880年)、東洋の学術文化の交流を意図した岩倉具視(いわくらともみ)先生らが創設した斯文学会です。現在、湯島聖堂の維持管理のほか、孔子祭や公開講座の開催などの活動を行っているそうです。

伊東忠太(1867~1954年)先生は、1902年から3年以上をかけ、中国、インドなどを巡りました。帰国後、世界各地の建築は相互に影響し合いながら進化するという建築進化論を唱えました。西洋建築一辺倒は見直されることになります。

脱線しますが、伊東忠太先生の時代は、とりあえずは、様々な思想を吸収し、前進しようとしました。現代は、前向きさもなく、しかも、施政者側の善行も失われています。

昭和50年(1975年)に台湾から贈られた孔子像
昭和50年(1975年)に台湾から贈られた孔子像

どのような建物にするか

・・・扨て、此の度の復舊の計畫でありますが、・・・何分にも復舊と云ふことを主にするのであって新規に造るのではない、卽ち昔の形を元の儘に復すると云ふのが主でありますから、一切のことは總て忠實に昔の型にしたのでありますが、舊型よりは幾分か支那趣味を濃厚に致しました。・・・今度の復舊計畫は舊觀に止めるとは云ひますが、舊觀よりは粗末であります。・・・最近燒けました聖堂の漆工事は・・・木材の上に布を二度も被せて其の上に漆を何十遍も掛けた。今日其の眞似をすれば工費が二倍半も掛かる、それで外觀の醜くない程度で節約して工費を減じたのでありまして、・・・唯だ孔子の祭典を行ひ、儒敎を世に宣傳するの用が足りれば足ると云ふ程度にしなければならなかつたのであります。

伊東忠太建築文献、第6巻、昭和12年、pp.336-337

補足も加えながら述べますと、焼失したのは、先に引用されていた通り、寛政十一年(1799年)築のものでした。これを忠実に再現したとあります。昭和十年(1935年)のことです。ただし、儒教が興った中国の様式を強調した、外観的に許容できる範囲で節約したほか、鉄筋コンクリート造となっています。

最後になりますが、伊東忠太先生は妖怪建築家と称されています。湯島聖堂にも妖怪が棲んでいます。中国やインドの建築には付き物ですから、折衷様式を目指す先生の建築がそのように彩られるのは当然と言えます。

鉄筋コンクリート造で再建された大成殿
昭和十年(1935年)に再建された大成殿

今回は以上となります。

伊東忠太先生の書に「震災所感」というものがあります。それを引用し、関東大震災をストレートに綴ってみたいと思います。また、妖怪の記事も書いてみたいと思っています。お楽しみに。

それでは、ごきげんよう。

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