
Atelier momo
建築家、インテリアデザイナー
デザイン界のレジェンドたちにオマージュを捧げます。
フィンランド南西部の森の中にひっそりと佇むパイミオのサナトリウムは、単なるかつての医療施設ではありません。これは、建築家アルヴァ・アアルトとアイノ・アアルト夫妻が手がけた、建築が人間の心身の回復を積極的に支援できることを証明した「人間的な機能主義」の金字塔です。
1933年に竣工したこの建物は、当時のフィンランドにおける機能主義建築の突破口となり、アアルト夫妻をモダニズム建築の最前線へと押し上げました。その革新的なアプローチは、世界中の医療建築に影響を与えたと言われています。
時代の要請と森の中の選択
20世紀初頭、結核はヨーロッパ全体で深刻な公衆衛生上の課題であり、「白い疫病」と呼ばれていました。当時、結核の有効な治療法は確立されておらず、新鮮な空気、自然光、そして安静が回復に最も有効だと考えられていました。
こうした背景から、フィンランド政府は結核療養のための近代的施設の建設に着手しました。コンペティションが1928年に開催され、当時30歳だったアルヴァ・アアルトの案が採用されました。
パイミオのサナトリウムの敷地として選ばれたのは、緑豊かな白樺と松の森に囲まれた場所でした。これは、新鮮な空気を肺に送り込むという当時の治療思想に適していたためです。また、近隣住民への感染を防ぐため、周囲の環境から十分な距離を取り、独立した水処理設備を持つ必要があったことも理由の一つです。アアルトは、この建物を周囲の自然環境と調和させ、森自体を建物の一部として捉え、患者が自然の中で回復できるような遊歩道を設けました。



患者の視点に立った建築デザイン
パイミオのサナトリウムの設計は、徹底して患者中心のアプローチが取られています。アアルト夫妻は、最も長時間、多くの場合ベッドで「横たわった」状態で過ごす患者のために、細部にわたる配慮を凝らしました。
光と空気を取り込む工夫: 病室棟は朝日を取り込み、西日を避けるように南東向きに配置されています。各部屋の窓は大きく、バルコニーや屋上サンデッキは日光浴や外気浴のために設けられました。真冬のマイナス気温の中でも、患者は毛布や寝袋を使ってバルコニーで過ごすことが奨励されました。暗くなりがちな階段の踊り場もガラス張りになっており、明るさを確保しています。大きな窓ガラスの中にはドイツから輸入されたものもあったそうです。





癒やしと快適さをもたらす色彩: 画家のエイノ・カウリアとの協働による色彩計画は、患者の心理的な快適性を重視しています。ロビーや階段の床に使われたカナリアンイエローは、太陽光を建物内に取り込む効果を狙いました。病室やラウンジに配された多様なニュアンスのグリーンやブルーは、穏やかで平和な雰囲気を作り出しています。機能や要素ごとに色分けされた手すりや設備も、視覚的な判別を助け、明るい気持ちにさせる意図がありました。




衛生と安全への配慮: 機能主義の理念に基づき、衛生面も徹底されています。壁や床の角を丸くすることで、埃がたまりにくく清掃しやすくなっています。患者の手に触れる部分(例えば、家具の脚を木製にするなど)にも配慮が見られます。病室の洗面器は、水はねしないように設計されています。






騒音の軽減: 回復の前提条件として「完璧な静けさ」が重要視され、部屋の音響効果にも注意が払われています。
パイミオチェアに象徴される家具デザイン
アアルト夫妻は、建築だけでなく、建物内部の家具や照明、テキスタイルに至るまで全てをデザインしました。これは、建物を「総合芸術作品(ゲザムトクンストヴェルク)」として捉える彼らの姿勢の表れです。
特に有名なのが「パイミオチェア」と呼ばれるアームチェア41です。曲げ合板で作られたその背もたれと座面は、結核患者が座ったときに呼吸がしやすいように角度が計算されています。表面は清掃しやすく、木製のフレームは患者が触れた際の心地よさを考慮したものです。パイミオチェアは、家具素材としての木材の可能性を示し、モダニズム家具デザインの新たな基準を打ち立てました。この椅子は、アルテック社によって現在も生産され続けています。

アルテックの製品コレクションには、パイミオサナトリウムのために開発された他の家具も含まれています。例えば、アイノ・アアルトがロビー用にデザインしたサイドテーブル606などがあります。

厳格さの中に育まれた共同体
サナトリウムでの生活は、回復という強い目標のもと、主治医によって厳格に管理されていました。毎日決まった時間の呼吸療法、散歩、日光浴、そして木工や織物などのアクティビティへの参加は必須でした。真冬の極寒の中での呼吸療法も行われたほどです。
しかし、外部との接触が遮断された施設内では、患者同士の緊密なコミュニティが形成されました。各フロアごとに歌やフラッグを作ったり、院内ラジオが放送されたり、クリスマスパーティーやダンスパーティーが開催されたりしました。数ヶ月から数年に及ぶ長期滞在の中、人との交流は回復にとって重要な要素だったと考えられます。中には、院内警察のような人もいてルールを取り締まっていましたが、お酒を隠す患者もいたというエピソードも残っています。



現在の姿と訪れる方法
パイミオのサナトリウムは、結核の治療法が確立された後、病院として使用されましたが、2015年にその機能を完全に終えました。現在は文化遺産として保護管理されており、アルヴァ・アアルト建築の傑作として世界的に知られています。
現在、この歴史的建造物は見学が可能で、ガイドツアーが提供されています。事前に予約をすることをおすすめします。英語のツアーも利用できます。
建物の一部は、児童福祉団体の活動の場として使用されているほか、一時的にホテルとして利用できる時期もあるようです。カフェテリアはレストラン「Restaurant Toivo」として地元の人々にも開かれており、食事をすることも可能です。フレンドリーで親切なスタッフが多いとのことです。
パイミオへのアクセスは、車または公共交通機関が利用できます。ヘルシンキから高速バスを利用し、パイミオのバス停で降りてからタクシーを利用するのが一般的な方法です。トゥルクからはバスが出ており、サナトリウムの近くに停車するものもあります。敷地内には駐車場があり、車椅子でのアクセスも可能です。

不朽の遺産
パイミオのサナトリウムは、結核治療という特定の目的のために生まれましたが、そのデザインに込められた人間への深い配慮と、建築が心身の健康に与える影響への洞察は、現代のヘルスケア建築やデザイン原則にも通じるものです。自然との調和、光と色彩の活用、快適性と機能性の両立といったアアルトのアプローチは、バイオフィリックデザインの先駆けとしても評価されています。
この場所を訪れることは、単に美しいモダニズム建築を見るだけでなく、かつてここで暮らした人々の生活や、病と向き合った人々の回復を建築がいかに支えようとしたのか、その物語を感じることでもあります。パイミオのサナトリウムは、建築が社会に貢献し、人々のウェルビーイングを向上させることができるという強いメッセージを、今なお私たちに伝え続けているのです。


今回は以上となります。最後までありがとうございました。