丹下健三先生は成城に住まわれ、同じエリアの幼稚園の設計に関わりました。そのあたりを簡単に綴ってみます。
ゆかり文化幼稚園(世田谷区砧七丁目)
丹下健三先生(1913~2005年)が設計したゆかり文化幼稚園の所在地は、世田谷区砧七丁目です。丹下健三先生は、言わずもがなですが、大規模で、国家的な建築を数多く手がけています。その中で、幼稚園というのは、異色と言わざるを得ません。後述しますが、丹下先生の自邸は、成城六丁目にありました。園から徒歩10分くらいの距離です。園から依頼があり、こどもの城の実現に共鳴し、設計に関わることになったようです。
起伏に富み、複雑な形状の約3400平米の敷地に、地下1階、地上2階、建築面積930平米、延べ面積1320平米の建築を配しています。敷地と一体化した断面計画、平面計画は高く評価されています。また、プレキャストコンクリートの使用から技術的にも注目されたようです。竣工は1967年です。なお、写真では、全景を把握できていないため、グーグルマップを掲載します。平面的に放射状に広がる様子がよくわかります。
園に希望すれば、見学が可能です。今でもきちんとメンテナンスが行われており、丹下先生の思いが繋がれているそうです。幼稚園の設計において、常識から外れた空間構成が、子供たちの身体面、情操面などに与えてきた影響を実際に見聞きしたいと思います。また、防災面、防犯面の取り組みにも注目したいと思います。
丹下健三先生の自邸(世田谷区成城六丁目)
丹下先生は、前川國男先生の事務所に勤務していたとき、自身が担当した四谷にある木造アパートに住んでおられました。強制疎開を機に、懇意にしていた住民に誘われ、成城へ移ってきたようです。ちなみに、その住民は、画家の石井柏亭(いしい はくてい)先生の娘さんご夫妻だったようです。
丹下先生は、戦後間もなく、結婚されますが、成城に住み続けました。結婚相手の父親に買い与えられた家に住むことになります。ちなみに、その父親は、小説家の加藤武雄先生です。加藤先生は、成城で田園生活を楽しみながら、執筆にいそしんでおられたようです。加藤先生は、丹下先生に子供ができると、成城大学の正門から西に延びる並木通り沿いに、300坪の土地を買い与えたそうです。
木造2階建て。切り妻屋根が載せられていましたが、屋根勾配は緩く、瓦の存在も控えめでした。1階は、ピロティになっていました。建物全体として、桂離宮書院の高床を意識したデザインともいわれています。モダニズムと日本の伝統との融合が図られたのです。1953年の竣工です。
平面的には、階段、水回りなどは、耐震要素も加えたコアにまとめられ、それ以外は、開放的で、自由な空間としました。モジュールの考え方から畳を用いながら、テーブルやチェアを配置し、合理的な空間を実現しています。
建物の前に庭を設け、塀を設けず、築山で周りからの視線を遮ったそうです。うっそうとした木々も取り囲んでいたようです。
竣工から十数年、仕事が多忙になったこともあり、都心の事務所近くに引っ越しされたそうです。ゆかり文化幼稚園が竣工した頃です。自邸は空き家となり、1974年頃、解体されてしまいました。ちなみに、丹下先生は、1970年頃、再婚されています。そのときの息子さんが、丹下憲孝(たんげ のりたか、1958~)先生です。現在は、丹下都市建築設計の会長職に就いています。
以上、丹下先生と成城との関わり、幼稚園設計を引き受けた経緯など、簡単に綴ってみました。
それでは、また。